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投稿日時:2013/2/11

白岡市制施行記念行事:講演会「中島撫山と白岡」

 

平成25年2月9日(土)

 白岡市制施行記念行事:講演会「新井白石 千年の秘密」の続編として、早稲田大学名誉教授村山吉廣(よひしろ)先生による、講演会「中島撫山と白岡」を開催しました。近頃、市民の皆様の間でも文化活動に対する興味が盛り上がり、当日会場である白岡市コミュニティセンターの玄関に満員御礼の貼紙が出たほどの盛況ぶりでした。

 中島撫山は、大儒者亀田朋斎の門流で明治最後の人と目された第一人者で、「李陵」や「山月記」などの優れた作品を残した作家中島敦の祖父に当たる人です。幕末から明治にかけて、漢学と国学を教えた学者であり皇漢学者と言われた人です。そして、明治6年現在の久喜市中央2-6に幸魂教舎(さきたまきょうしゃ)という私塾を開き、この地方の若者達に名誉や利益を求めず、時流に迎合することなく人としての真の道を教え、塾生を熱愛しその訓育を生涯の仕事としました。

 そのため、この地方では官制の学校を出た上に幸魂教舎を卒業しないと一人前とは言われませんでした。従って、明治44年82才で亡くなるまでにこの地方の若者達千数百人を教育し、白岡市域にも37名の塾生がいたことがわかっています。

 白岡市は、久喜市に隣接する地域なので撫山先生が撰文した碑石・墓誌・掲額・書跡などが沢山残っていることがわかっていました。

しかし、悲しいかな現代人の我々では、何が書かれているかわからないのです。そこで、村山先生にお願いしこれらを訓読し語釈を付けていただき図録にして後世に残すことにしました。現在、村山先生の弟子である教授や准教授の方々も、この漢文を正確には読めない時代になっており、これが最後の機会と考えたからです。

 この内の碑石について触れますと、市域には9個の碑石が存在し久喜市についで多い数になっています。そして、この地方で撫山先生が撰文した最初と最後の碑石が当市にあるのも特徴的です。最初のものは、明治5年につくられた岡泉の「百体庚申之碑」です。これには、百体の「庚申」という文字が全て異なる書体で書かれたことが記されています。

最後のものは、明治43年につくられた白岡駅西口の「新設白岡車站之記」です。これには、白岡駅が出来たことにより、白岡八幡宮にお参りに行きやすくなったこと、白岡の産物を輸送するのに大変便利になったこと、しかし交通の便が良くなったので色々な人が入り込み風俗が乱れるので注意する様にとのことが書かれています。

 そして、この9個の碑石の内7個が大山地区に存在していることも特徴的です。きっとこの大山地区には優秀な塾生がいて、撫山先生に愛されていたのかもしれません。その内、皆さんの努力でその理由が解明される日が来るかもしれません。今回この文化事業でわかったことを市内外にPRすることは、白岡市の観光資源としてまちおこしに役立つのではないかと大いに期待しているところです。


この記事は 2013.2.11 に ブログ カテゴリに公開されました。 RSS 2.0 フィードで購読することができます。

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